超主観的自分と超俯瞰的自分

最終更新日

超主観的自分と超俯瞰的自分

「人生の目標(GOAL)はありますか?」

そう質問されて、まともに答えられる人がどのくらいいるのでしょうか。
この前に読んだ本「お金のPDCA」という本では、まずこの人生の目標を決めて、それに対して逆算で目標達成計画を立てることが重要だと記載されていました。

まず「自分」とは何か?
なぜ、この世に生まれて、今の自分は何を目標に生きているのか?
時間は止めることができずただただ流れ、大人になり、やがて歳を取り死んでいく。
ある時は夢に向かって一生懸命になったり、挫折して新しい夢を新たに作ったり、
ある時は生活する為に働いてお金を稼いだりしなければいけないと考える時もある。
子供が生まれれば、子供をある程度立派な大人にさせてあげたいとか子供によい機会を与えてあげたいとか考える時もある。
その場その場を乗り越えて生きている。だけども、そういったことをする意味がどこまであるのだろうと考えることもある。
なぜ、自分は今を生きているのか?
ソーシャルゲーム黎明期から作ってた。で、それがなんだ。。

自分の人生の目標とは何か。短期目標は描けても人生の目標というのはなかなか難しい。

そんな時に思ったのが「超主観的自分」と「超俯瞰的自分」
超主観的自分とは、自分のやりたいことに素直にまっすぐな自分。
超俯瞰的自分とは、自分を神視点にたった状態で見る自分。

超主観的行動は自分のやりたいことに真っ直ぐであり、それはそれで自分自身の毎日が楽しくなる。本能、魂といったような遺伝子なのかそれに訴えかけるものに魅力を感じ、何かに取り憑かれたようにやる気がでて行動ができる。

超俯瞰的行動は、自分を東京という枠組みから日本、海外、地球、宇宙レベルで視点を引いてみた場合にどう感じるのか?とする。
すると、自分という人間は”アリ”レベル、もしくはそれ以下の小さな存在へと変わる。その視点で自分の今の行動に対して見ると、別に自分がこの世にいなくても1mmも世界は変わっていないように思えるだろうと思う。
そもそもが何をしようといづれ死んでいく、何千年も前に生きていた人も今を生きている人も基本的には変わらない。
動物園のチンパンジーをみているとなんだか切なくなるが、彼らも我々と一緒だ。と思うことがある。

そういうことを踏まえて、考えたことが2つ。

1.
超主観的に生きるのならば、”自分を常にHappyな状況にする”をGoalとする。
自分が歳をとって老人化した際に、現在の高齢者が遭遇しているようなつまらない日常は無くしたい。
自分の子供達が大人になった後、定年を迎えたあとの生活であったり、老人ホームに入った後の生活であったり。
今のご老人をみてキツイなーと思うことを今から、企画開発/アップデートし、自分達が過ごす老後をHappyな世の中へ変えたい。

2.
超俯瞰的に考えるのならば、自分がいなくてもよかった世界と思わせない。小さな市場変化ではなく、世界レベルでインパクトのある取り組みをするをGoalとする。その取り組みによって、”自分が死んだ後の100年後にもある程度の文化レベルで浸透”している取り組みができたら幸せだと思う。